善神王さま
善い神の王様と、すごい名前の神様です。 King of Good-Genius
杵築リゾート内の公園のひとつに、善神王をお祀りするお宮が在ります。
正確に言えば、お宮を含めた森林全体が、森林公園となっています。
(お宮前)・・地名が、杵築市大字梶浜 字善神王 ですから、大昔から在ったお宮です。
この善神王宮は高台にありますので、東と南に別府湾が見渡せます。
(鳥居の写真)・・・・鳥居の左足には、文政三辰 三月と彫られており、
鳥居の奉献は、江戸時代末期の1820年4月になります。
能見松平氏の杵築藩で藩学校が出来た頃とほぼ同時期で、
ペリーの黒船来航の23年前のことです。
(お宮の祠)・・・・・ご神木の木漏れ日の元に、ご神岩と祠(ほこら)が在ります。
おそらく、ご神岩は太古の昔からお祀りされていたのでしょう。
後方の東側は、四国も望める別府湾が広がっています。
このことから、善神王は、海上の交通安全の神かな?と、思っていました。
善神王は、全国の神社で摂社や末社などで祀られていることも多々在ります。
大分県内では、善神王に関するお祭りが盛んなようです。
大分市の加来神社~国東市の赤根社~竹田市の岡神社・広瀬神社のお祭が有名です。
善神王の読み方は、
ゼンジンオウ~ゼンジョウ~ゼジンノ(ウ)様などバラバラです。
バラバラだと気になる性格ですので、チリメンは調べて見ました。
善神王=五穀豊穣、無病息災、家内安全、長寿などの神様です。
善神王に神格化された人物は、武内 宿禰になりそうです。
武内(建内) 宿禰
読み方は、タケウチのスクネ、タケノウチのスクネ、タケシウチのスクネなど・・・
宿禰(スクネ)とは、天皇が親しみを込めて朝臣を呼ぶときの呼称のようです。
全く別人でも、
宇佐 宿禰、紀 宿禰、石川 宿禰など、○○宿禰と言う人が多数います。
712年の古事記や720年の日本書記などによれば、
12代景行天皇から16代仁徳天皇まで、
5代の天皇に283年間仕えた貴族の総理大臣。
一人の人物としては、300歳を超える超人的な寿命を誇ります。
国政の傍ら、関東や北陸へ視察調査や半島に討伐出張するなど大忙しです。
寿命の長さから武内 宿禰は、架空の人物ともされていますが、
実在の場合には、
宿禰の名前を代々世襲した複数大臣の総呼称だと考えられています。
もし、
一人の人物の場合は、5代の天皇のうち3~4代が架空天皇となりそうです。
直近では、
ご存知の方も多くいらっしゃるように、旧5円札などの肖像モデルです。
(チリメンは知りませんでした)
武内(建内) 宿禰に関する、チリメンの拙い調査では、
大和七豪族の開祖とあります。
朝廷の朝臣で大臣になれるのは、大和七豪族系の出身者のみとのことです~とても狭き門。
父は、欠史八代のひとり8代孝元天皇の孫とされる天孫系の貴族。
母は、スサノオ系出雲流の紀国造氏のお姫様(家系的には天孫系だそうです)
三貴神のひとり須佐之袁尊(スサノオのミコト)は、
その昔、天高原から新羅のあと出雲に降臨したとあります。
武内 宿禰の年代資料をみると・・・・・・・
弥生時代・邪馬台国・三輪王権・ヤマト王権初期と幅広い年代考察となります。
しかし、
登場人名は難字難読記憶不可・家系も複雑諸説複合難解難儀・年代不詳都合創作誤記誤読・・・・・・
もう、・・・・調査を諦めました。
もし、武内 宿禰が実在したなら、
ヤマト王権が成立した直後の4世紀頃かも~?に留めます。
善神王さまのお祭りのご紹介
当リゾート内のお宮では、
不定期ですが9月に奉納神楽が地元の人により行われます。
(普段は、リゾート入居者のご厚意で、お宮の周りは草花が植えられています)
善神王祭(ゼンジョウサイ)=国東市の赤根社の秋の火祭り
大分市の加来神社から善神王の分霊を行い、200年以上の伝統があります。
重さ1.5トンの大松明に火をつけて、人力のみで起きあげるお祭です。
立ち上げられた大松明は10mの高さになります。
五穀豊穣の火祭りで、火の粉が掛かれば無病息災のご利益があります。
ケペス火祭り=国東市の櫛来岩倉社 10月14日の火祭り
善神王と関係無さそうで有りそうな、語源も祭りの起源も不明なお祭りです。
~大きな焚き火の周りで、主人公ケペスとトウバが争います。
火の粉が掛かれば、無病息災のご利益があります。
善神王さま(ゼジンノサマ)=竹田市の郷社:岡神社と広瀬神社の秋の火祭り
高さ70mの櫓に沢山の小松明を灯して、三層天守閣を浮かばせるお祭です。
江戸時代中期より、380年以上の伝統を誇ります。
やはり、五穀豊穣の火祭りです。
やっぱり脱線
では何故?
武内 宿禰は、五穀豊穣の神様=善神王として祀られたのでしょうか?
穀物神を祀る神社としては、稲荷神社が有名です。
稲が豊作で繁栄する稲実り→稲成り→いなり→稲荷(米俵のイネ荷とも~)
繁栄す農業・工業・商業の産業神でもあり、神仏習合して稲荷大明神です。
主神は、スサノオの子:宇迦之御霊神(ウカノミタマのカミ)で、
お狐さまを使者として送り、日本 武尊の手助けをしたことも有ります。
この接点から、
日本 武尊(倭 建命)と武内(建内) 宿禰は、同一人物の説が有ります。
共に二人は、ヤマト王(後世に天皇と称す)を補佐した人物です。
名前に使われている漢字が同じなのは偶然でしょうか?
古事記や日本書記の編集者の創作でしょうか?
その昔ひょっとしたら、
同一人物にすると、過去王権の歴史上、何か都合が悪かったのでしょうか?
また、武内の内という漢字があてがわれていますので、
武内 宿禰は、日本 武尊に代わって活躍した身内ないし従臣かも知れません。
日本 武尊(古事記の表記では、倭 建命)
12代景行天皇(古事記の在位71~130)の皇子で、倭国を平定して回ります。
天皇にはなれないまま、
最後には「倭の国のまほろば~」と四首読み病死してしまいます。
彼の子どもは14代仲哀天皇で、
15代応神天皇(古事記の在位270~310)は孫にあたります。
九州筑紫で生まれた応神天皇は、
のちに宇佐神宮で軍神の八幡大菩薩となります。
チリメン空想
武内 宿禰または日本 武尊が、
新王権の為に、武力と知力で倭国を平定して回ったとします。
同時に生産性の高い改良稲も、平定した土地に持ち込んだと仮定しましょう。
人々は、戦が減って農業に専従し、改良稲により更に暮らしが安定しました。
「武内 宿禰さんは善い人だ。神様みたいだ。農業の王様だ。」
「倭国初の総理大臣に感謝しよう、善神王としてお祀りしましょう。」
お祀りしたら翌年も大豊作。これからもお祀りを続けましょう~
五穀豊穣の為に~
善神王さま。
これからも、きつきリゾート共々、地球の繁栄を、宜しくお願い申し上げます。
・・・・終わり・・・・
ついで脱線~大分の名付け親:景行天皇
713年編纂の豊後風土記によりますと、景行天皇が九州巡行の際、
大きな田を見て碩田 (オオキタ)を命名されたとあります。
碩田(大きく優れた田の意味)=大きい田→大い(多い)田→おおいた→大分
実際は、大規模で小さく分かれた棚田をご覧になって大分になったようです。
現在の大分市及び周辺は、
古代では大分郡(オオキタのホコリ)と呼ばれていました。
701年大宝律令の9年前に豊州が、豊前国と豊後国に行政区分されます。
豊後国府が置かれた由来で、明治22年大分町になるまで府内と呼ばれます。
明治44年に大分市になりますが、
市内には昔を偲ばせる町名が残っています。
府内(ふない)・・・・・・県庁や府内藩の城跡が近く~大分市の中心.です。
碩田(せきでん)・・・・景行天皇が船で上陸されたとされる。
大友宗麟が南蛮貿易をした旧港に近く、
~市の中心地より北がわ海がわ。
古国府(ふるごう)・・・・豊後国府があったとされる~市の中心地より南がわ。
(JR九州の久大本線にある古国府駅)
久大本線・・・・久留米駅から大分駅を結ぶ約141キロの単線路
日田・湯布院を通ることから、ゆふ高原線の愛称もあります。
熊野神社のお神輿
毎年11月15日に、杵築市熊野の熊野神社のお神輿がいらっしゃいます。
(今年も、杵築リゾートの入り口にある公園に、熊野神社のお神輿がいらっしゃいました。)
(お参りをして、お神輿の下をくぐるリゾートの入居者の皆さん。無病息災のご利益があります。)
文責:チリメン「間違っていたらゴメンナサイ」
写真撮影年月日 平成21年11月15日