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大友 宗麟(おおとも そうりん) 1530年生~1587年没 九州の戦国大名で、キリシタン大名としても有名です。 今回のテーマ 『キリシタン』では、彼と彼に関わった人物をご紹介します。
府内城跡公園内の大友 宗麟の胸像
大友 宗麟のご紹介 宗麟とは、出家した名前で、休庵 宗麟が正式名称です。 出家前は、義鎮(よししげ)と言います。 義鎮は20歳のとき、『二階崩れの変』で、大友21代当主となります。 翌年にはポルトガル船を豊後に入港させました。 すぐに、フランシスコ・ザビエルと面会して、領内での布教を許します。 彼は、キリスト教よりも南蛮貿易のメリットに興味があったといわれます。 最新兵器や鉄砲に使う火薬を、敵対大名より多く仕入れたかったのです。 布教を許さない敵対大名には武器を売るな、と書状も残っています。 27歳のとき、宣教士ルイス・アルメイダとも面談しています。 義鎮は、アルメイダの要請で府内(現:大分市)に土地を与えました。 アルメイダは、日本初の孤児院やホスピタルを建てました。すべて無料です。 32歳で出家して、宗麟と名乗ります。 42歳のとき、九州六国を治める大名となりました。 六国=豊前・豊後・筑前・筑後・肥後・日向(大分・福岡・熊本・宮崎の各県) 46歳で隠居し、支城のひとつ丹生島城(現:臼杵城)に居城します。 48歳のとき、属領の日向大名:伊東 義佑が島津軍に敗れ亡命してきました。 亡命してきた伊東 義佑の孫:義益を遣欧少年使節団員として送ります。 伊東 義益は、のちに伊東 マンショとして、ヨーロッパから帰国します。 若いときは乱暴者であった宗麟は、隠居して大人しくなったと言われます。 キリスト教に傾倒していき、キリシタン王国を創る野望が芽生えました。 彼は、48歳で洗礼を受けます。洗礼名は、ドン・フランシスコ。 洗礼後、王国をつくる為に、島津軍が占領する日向の奪回を始めます。 宗麟軍はキリスト教を唯一とするため、神社仏閣の破壊活動を始めました。 これには、仏教徒の方が数が多い宗麟軍内に、動揺が広がります。 決戦の耳川の戦いでは、宗麟自身は遠隔地で礼拝中だったともいいます。 大敗した宗麟軍は撤退。勢いに乗る島津軍が豊後領に大侵攻してきました。 自力排除できない宗麟は、太閤:秀吉に謁見し、島津討伐を要請します。 秀吉に臣従する道を選んだ宗麟は、このとき56歳です。 秀吉の九州討伐の成功で、大友家には豊後一国が安堵されます。 秀吉は、宗麟にも日向国の安堵を打診しますが、宗麟は辞退します。 宗麟には、キリシタン王国建設の野望や体力が残っていませんでした。 宗麟が没した1587年に、秀吉は滞在の九州でバテレン追放令を出します。 宗麟が夢見たキリシタン王国 宗麟は、夢の王国を『ムシカ』と名づけました。 ムシカとは、スペイン語で「音楽」を意味するそうです。 教会の賛美歌や南蛮人が楽器演奏する音楽に歓心を懐いていたからです。 彼は、西洋音楽が鳴り響く理想のキリシタン王国を創りたかったようです。 ムシカの首都は、宮崎県延岡市無鹿町あたりと言われています。 延岡港にも近く、南蛮船の入港も配慮していたと思われます。 ムシカ建国が出来ていれば、正真正銘のキリシタン大名でしたが・・・・・・ 宗麟の当主時代では、豊後領内での王国建設は出来なかったと思います。 家臣の多くは仏教徒で、キリスト教を嫌っていたからです。 他国の日向なら、一からの出直しで王国が出来やすいと考えたんでしょう。 宗麟の布教保護により、豊後領内のカトリック信者は増えました。 当時で、その数が3000~5000人とも言われています。 のちには、国東出身のペデロ・岐部も誕生します。 宗麟の外来文化を採り入れた功績は、 新しいものが好きで、外来者をもてなす大分の県民性として残りました。
南蛮貿易港跡に建つ大友 宗麟像
文責:チリメン「間違ってたらゴメンナサイ」 (写真撮影日:2009年 6月22日)
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